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無題

雨上がりの湿度が高い金曜日の夜、僕は夕食をカレーで簡単に済ましたあと、
新宿駅南口の近く、路地裏雑居ビル5階のバーに入った。
店内は煙草の煙と臭いで充満していて一瞬不快感を覚えたが、僕は10席ほど
あるカウンター席の真ん中辺りを選んで座り、とりあえずマティーニを注文した。

それを軽くひと口飲んだあと、ジャケットのポケットから携帯電話を取り出し、
ずっと溜めたままだった着信メールに次々と返信をした。
「了解しました。」「先日はお疲れ様でした。またよろしくお願いします。」
「かわいい赤ちゃんですね。」「19時まで仕事なので、また次の機会にでも」
「RとLは、日本人は苦手なんです」「面白そうですね、今度探してみます。」
「お元気そうで何よりです」「5/25は19時30分頃の出演です。お待ちしてます」
などなど。次々と返信をした。

残りのマティーニを一気に飲み干し、最後の1件に取りかかった。
それは、僕が久しく連絡を取っていなかった友人に送ったもので、その彼からの
返信メールだった。


「メールありがとうございます。しかし残念ながら、あなたの登録がありません。
 大変失礼ですが、あなたはどなたですか?」


さてこれはどうしたものかと考えつつ、僕は二杯目のマティーニを注文した。
それを軽くひと口で飲み干したあと、

「まずは、名乗らなかったことをお詫びします。実は、僕は30年間の冷凍睡眠から
先日目覚めたばかりで、とりあえず誰かにメールをしたかった次第です。
あれから30年の月日が経ちましたが、洋服の趣味や毎朝の習慣が変わったり、
生まれた子供がすくすくと成長していたり、太ってしまったり白髪が増えたりなどなど、
いかがお過ごしでしょうか。
僕は先日目覚めたばかりなので、きのうと何も変わりはありません。
僕は常にドライな関係を好むと共に、夏への扉を開けるときのような、眩しさが心地良い
澄んだ関係を望みます。もし僕がタイムマシンを持っていたら、僕らの関係が思い出に
変わるあの日の直前に戻り、コーヒーでも一緒にどうですかと誘おうかと思っています。
では、またその日まで。さようなら。」

送信ボタンを押したあと、その友人の登録を消去しようかと思ったが、やめた。
僕は携帯電話をジャケットのポケットにしまい、3杯目のマティーニを注文し、
それを軽くひとくち口につけ、席を立った。

「どうも甘いな、このマティーニは。」

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