ワインとソーセージを食べ終え、コーヒーを追加注文し、煙草を
何本か吸ったあと、僕はレストランを出て再び街を歩いた。
本屋に入り、彼女が好きだと言っていた作家の本を見つけた。
その本を手に取り、ぱらぱらとページをめくり、この本について
語っていたときの彼女の表情や手の動き、しぐさを思い出す。
彼女は決まって毎朝毎晩、何かぶつぶつと独り言を言う癖があった。
何と言っているのか聞き取れないし、何語なのかすらも分からない。
最初は夢にうなされた寝言か、または幼い頃におばあちゃんから
教えられた「おまじない」なのかなと、軽く考えていた。
しかし、その独り言で眠りを妨げられることに我慢が出来なくなり、
僕らは別々のベッドで眠るようになった。
また、僕らはお互いの個性やお互いの時間を尊重する関係を望んだ。
その傾向は彼女の方が強く、彼女がそうであるよう望んだ。
お互いの好きな音楽や映画、作家について話すことはよくあっても、
彼女は自分の好きなものを僕に「薦める」ことは決してしなかった。
「興味があればいつかどうぞ」という程度に留めていた。
しかし僕は、彼女とは逆だった。
僕は自分の趣味を、強く彼女に薦めた。
僕は自分が好きなものを彼女にも好きになってもらいたかったし、
お互いにそれを共有して楽しみたかった。
僕が薦めて彼女が気に入る場合も時々はあったが、彼女は自分の
趣味に合わないものに対しては、断固「拒否」した。
聴いてみようとか、読んでみようとかいう試みもせず、全く興味を
示そうとしなかった。
興味が持てないものに対して、気を使って「いいね、悪くないね」とは
お世辞でも言わなかった。
僕は彼女の趣味が大好きだったし、彼女の好きな音楽、映画、作家は
ほとんど僕の「お気に入り」になった。
彼女の話し方、物の考え方も好きだったし、服装のセンスも好きだった。
僕は彼女の「趣味の良さ」を尊敬していたし、そんな彼女を愛していた。
それだけに、僕が好きなものを全く受け入れない彼女を不満に思った。
特に音楽に関しては、僕は自分の趣味に絶対的な自信を持っていたので、
それを拒否されるとプライドを汚された気分になった。
自分の趣味に関して僕は相当頑固だったし、彼女も頑固だった。
それが原因で、大喧嘩になったときもあった。
彼女の行動に変化が見え始めたのは、僕らが付き合い始めて半年ほど
経った春の終わり頃。
彼女は昔からダンスを踊ることが好きだった。
週末になると、仕事帰りに近くのダンスホールに通っていた。
軽く汗をかく程度の、スポーツ代わりの運動かと最初は思っていたが、
週2、週3とだんだん通う頻度が増え始め、ついには毎日そのダンスホールに
通うようになった。
彼女が仕事から帰宅すると僕らは一緒に食事をしたが、彼女は食事を
済ませると「疲れたからもう眠るわ。明日も早いから」と言って、すぐに
自分の部屋に入るようになった。
散歩に行こうと誘っても、「今日はちょっと疲れてるから」という理由で
断るようになった。
休日は一緒に街へ出かけて映画を観に行ったが、それも次第に回数が
減っていった。
彼女は部屋で一人ヘッドフォンで音楽を聴いて過ごすことが多くなった。
お互いの時間を尊重する関係を望んだ僕らだったが、彼女と過ごす時間が
無くなってきている事を僕は不満に思った。
彼女は仕事が終わるとダンスホールに通い、帰宅後は僕と短い夕食の
時間を過ごすと自分の部屋に戻り、ヘッドフォンで音楽を聴いている。
朝は眠い目をした僕と一緒にさっさと朝食を済ませ仕事に出かけ、
夜はまたあのダンスホールへ。
そんな生活を送っている彼女は、不思議と日を追うごとにエネルギーに
満ち溢れていくように見えた。
彼女の大きくて黒い瞳は、僕には見えない何かを見ているように思えた。
彼女の瞳は、とても輝いていた。
ダンス大会で優勝したのだろうか。
トロフィーや賞状もたくさん持ち帰ってきた。
彼女にはダンスの才能があるのだろうか?
もしかしたら、僕の知らないところでプロのダンサーを目指して毎日
あのダンスホールに通っているのだろうか?
「君のダンスを一度見てみたい。僕もダンスホールに誘ってくれないか?」
と何度となく訪ねてみたが、「恥ずかしいから」という理由でいつも断わられた。
会話の種にでもと思い、僕がテレビで知った有名なダンスコンテストの話を持ち
出しても、「興味がない」と答えるだけ。
次第に僕らの間には会話がなくなり、顔を合わすのも食事の時間以外は
ほとんど無くなった。
昔の楽しかった時期とはまるで違う、とても冷めた関係だった。
結局僕らも、世間一般の恋人達と同じ理由で終わってしまうのか?
すれ違いや価値観の違い、同じ時間を共有できない、なんて理由で。
彼女はエネルギーに満ち溢れ、充実した毎日を過ごしていうように見える。
一方僕は、音楽を聴く以外にこれといった趣味も特技もなく、時間の経過を
カウントする退屈な仕事をこなすだけの、無意味な日々を送っている。
これでは、今の僕と彼女は釣り合いが取れていない。
恋人同士というには、バランスが悪すぎる。
お互いの時間、価値観を尊重していたはずなのに、僕だけが一方的に不満を
抱えているように思える。
これ以上我慢することが出来なくなった僕は、思い切って彼女に尋ねた。
一体、僕の知らないところで君は何をしているのか?
なぜそんなにあのダンスホールに通っているのか?
昔のあの頃のような関係に戻りたい。
僕は君と同等でありたい。
どうすれば君みたいに、エネルギーに満ち溢れることができるのか?と。
しかし、彼女は何も答えてくれなかった。
彼女の大きくて黒い瞳は、まるで僕を憐れんでいるように見えた。
結局、僕らは別れることになった。
(手に取った本を買い、本屋の隣のカフェに入ることに。最終章に続く)
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本屋を出て隣のカフェに入り、コーヒーを注文する。
買ってきた本を取り出し、表紙から順番にページをめくる。
冒頭の2、3ページまで読み進むが、なんだか集中できないので
途中でやめた。
彼女はこの本について「冒頭部分で引き込まれた」と言っていたのを
思い出す。
本をポケットにしまい、店を出る。
僕は壁の跡地へと向かった。
彼女と別れてから、僕はこれまでの人生で最も酷い日々を送った。
毎日がひどい無力感だった。
食欲も無く、仕事にも行かなくなった。
外出もせず一日中部屋に閉じこもり、彼女が薦めてくれたCDや
レコードを何度も聴いた。
喧嘩して口をきかなくなった時、お互いに好きだった曲が店内に
ふいに流れ、照れ笑いして仲直りしたこともあった。
2人で街を散歩しながら話した事や、そのときの彼女の表情や
笑い声を思い出した。
一人でいることに恐怖すら覚え、夜眠ることも出来なかった。
僕は自分以外の誰かの存在を渇望した。
生まれて初めて、「孤独」だと思った。
何日経っても何週間経っても、彼女を忘れることが出来なかった。
黒くて重いどんよりとした虚無感の中、僕はただ「何もしない」
毎日を過ごした。
そのうち、僕はこんな日々が耐えられなくなった。
このままじゃいけない。
そして、いてもたってもいられない衝動に駆られた。
このままでは終われない。
もう一度だけ彼女に会いたい。
会って話をしたい。
彼女のダンスを見てみたい。
彼女がエネルギーに満ち溢れる訳を知りたい。
そんな思いを抑えきれなくなった僕は、彼女が通うダンスホールに
行ってみよう、と思った。
一体どんな世界で、どんな音楽で彼女は踊っているのだろう?
壁があった東側の地区。
派手なネオンがギラギラと光る歓楽街。
交差点では車が途切れることなく飛び交っている。
クラクションや酔っ払いの怒号などのけたたましい喧騒が、
夜の街を活性化させている。
信号が青に変わると、溢れ出るように人が歩き出す。
僕もその中を一人歩く。
下を向いて歩いていたので誰かと肩がぶつかり怒鳴られた気がしたが、
振り向くことなく横断歩道を渡り歩いた。
人通りの多い通りを抜けた路地裏の一角にある、古びたビルの地下に
そのダンスホールはあった。
辺りは街の喧騒とは正反対の、ひっそりとした静けさ。
入り口近くの道路脇には、ダンスホールの名を書いた看板がチカチカと
怪しげな光を放ちながら立っている。
入り口から地下に伸びる階段は、不規則に点滅する蛍光灯だけが
足元を照らす唯一の明かりだった。
点いたり消えたりする蛍光灯が周りをフラッシュバックさせるようで、
その階段が果てしなく地下に続いているような錯覚を覚えた。
僕は足元を確かめながらゆっくりと階段を降り、受付で金を払った。
受付の店員にホールの入り口はどこかと訪ねると、店員は僕の顔を
見ようとはせず、人差し指で方向を指し示した。
僕は礼を言い、ホールの入り口へと向かった。
ブラックライトで紫色に包まれた通路を歩いていくと、ドン、ドン、
ドン、ドン、という低音がホールから漏れ聞こえてきた。
ホールへの入り口となる重苦しいドアを見つけた。
このドアの向こうに、彼女がいる。
そう思うと、心臓がどきどきと大きく鳴った。
僕はゆっくりと大きく深呼吸し、落ち着くよう自分に言い聞かせた。
そして、ドアをグッと押し開けた。
その瞬間、大音量の音楽と大衆の汗臭い熱気が、僕の全身を襲ってきた。
僕は唖然とした。
ホール内に流れる音楽に、耳を疑った。
なんだこれは?
今までに聴いたことがない音楽が、そこには流れていた。
腹の下辺りに響いてくる重苦しいリズム、単調に繰り返す効果音が
耳の奥にまで突き刺さり、性別の分からない声が何かをわめき、
叫んでいる。
僕はこの音楽にとてつもない違和感を感じた。
嫌悪感さえ覚えた。
まるで、僕の趣味じゃなかった。
ホール内は、観客で溢れかえっていた。
僕は人混みをかき分け、やっとの思いでホール中央にあるステージの
前方に辿り着いた。
ステージ上では、何十人ものダンサーが大音量の音楽に合わせ、
競い合うように踊り狂っていた。
そのダンサー達を見て、フロアにいる観客は歓声をあげ、拳をふりかざし
熱狂していた。
フロアの観客は、ステージ上のダンサーに陶酔しているようだった。
何かを崇拝しているように、目がキラキラと輝いていた。
ダンスホールに流れる大音量の音楽が、ステージ上のダンサー達を、
フロアの観客を、これでもかという位に煽り立てていた。
ホール内は、観客の興奮と熱気でとても暑く、サウナのようだった。
僕は観客達に圧倒され、人混みに流され、ホールの端の方へと押しやられた。
この音楽をかけるDJは一体どういう人物なのか、確かめてみたいと思った。
僕はDJブースに目を向けてみたが、ちょうどそこは暗がりになっていて、
DJの姿をはっきりと見ることはできなかった。
しかし、スポットライトがDJの後ろから照らされた瞬間、DJの姿が
シルエットとして浮かび上がった。
そのシルエットは、後光が差したように神秘的な姿だった。
DJは人差し指を天井に向け上にかざし、音楽に合わして踊るよう観客を
煽っていた。
周りにいる観客は、皆きれいに揃ってDJの方を向いていた。
それは軍隊が行進するときのような、整然として規律正しい光景だった。
DJが拳を上げると観客も拳を上げた。
ダンサーに注目するようしむけると、観客は一斉にステージの方に向き直り、
ステージに熱狂した。
それに合わせダンサー達はさらに踊り狂い、DJはスピーカーが壊れそうな程の
音量で音楽を流した。
まるで、影の支配者のようだった。
僕はステージの中央で踊り狂っている彼女を見つけた。
DJが流す音楽に合わせ、彼女は一心不乱に汗だくになって踊っている。
彼女はダンサー達の中心にいた。
他のダンサーより、圧倒的に目立っていた。
彼女は、僕が見たことがない表情をしていた。
目は爛々と輝き、何かを信じきっているような瞳をしていた。
観客達は、彼女を「カリスマ」として崇拝しているようだった。
彼女がステージの前方に出てきて踊り始めると、観客達はさらに
盛り上がった。
彼女は、ステージ上で至福の時を楽しんでいるように見えた。
まるで別人のようだった。
僕は目を覆いたくなった。
耳をふさぎたくなった。
この音楽を、これ以上聴いてられない。
こんな光景は、もう見ていられない。
君がこんな音楽で踊っているなんて信じられない。
あのDJに洗脳され、踊らされているようだ。
僕はうんざりした。
君は、こんな趣味だったのか?
いつからそうだったんだ?
僕が知っている君のセンスや趣味とは、全く違っている。
まるで似合っていないし、何か間違っている。
僕のお気に入りだった君は、どこに行ってしまったんだ?
僕にはこの世界が理解できない。
ここは、僕の趣味じゃない。
僕が好きだった君は、ここにはいない。
僕の中で何かがブツン、と音を立てて切れた。
全てが終わったような気がした。
僕はダンスホールを立ち去った。
あの日以来、僕は彼女の姿を見ていない。
その後、彼女は世界的に有名なダンサーになったと噂で聞いたが、
僕はテレビでも雑誌でも、彼女の姿を一度も見たことがない。
僕が知らない別の世界で、彼女は今も踊っているのだろうか。
彼女が僕を助けてくれたあの壁の跡地は、今はただの草原だった。
夕日が地平線の下にさしかかり、草原は黄金色に輝いていた。
東西を隔てていた壁は今はもう無くなったが、僕と彼女の間に
築き上げられた壁は、まだそこに残っていた。
乗り越えることも壊すことも出来なかった当時の過ち、過去の遺産。
僕と彼女を隔てた象徴。
僕は壁のこっち側で、彼女は壁の向こう側で、それぞれの生活を
送っている。
当時の僕は、人を内面や外見よりも「何が好きか?」で判断していた。
そんな僕に、彼女は嫌気が差したのだろうか。
彼女は僕みたいに、自分の趣味を押し付けたりはしなかった。
もしかしたら、「強要しない」ということが、彼女の最大の優しさ
だったのかもしれない。
僕がそれに気づくのが遅かったのか。
または、僕に彼女の全てを受け入れる寛容さが足りなかったのか。
僕は壁の上に登り、あの日ダンスホールで見た彼女の姿を思い出し、
彼女を真似て一人ダンスを踊ってみたがすぐやめた。
僕は、趣味じゃない音楽では踊れない。